身近な人が、理屈の通っていない行動をしたり、あまりに楽観的な見通しで動こうとしているのを見ると、私は居ても立ってもいられなくなります。
「もしこうなったらどうするの?」 「その理屈だと、ここで破綻するよ」
それは私にとって、相手を批判したいからではなく、「大切な人を失敗や破綻から守りたい」という一心からの言葉です。もし何かあれば、自分にも少なからず責任が及ぶ。だからこそ、放っておくことができないのです。
けれど、論理的に正しければ正しいほど、相手との距離は開いていきます。 帰ってくるのは、私の予測に対する感謝ではなく、**「面倒くさい」「話が長い」**という冷ややかな言葉。
リスクを回避して安全な未来へ導こうとする私の「守りの論理」は、相手にとっては、今この瞬間の自由を奪う「束縛の論理」に聞こえてしまうようです。
守りたいからこそ口を出す。でも、言えば言うほど疎まれる。 このループの中にいると、「何のためにこんなに心を砕いているんだろう」と、虚しさと不安に押しつぶされそうになります。
最近、少しずつ自分に言い聞かせていることがあります。 それは、**「相手には失敗する権利がある」ということ、そして「私の責任は、リスクを提示した時点で一旦完了している」**ということです。
プロフェッショナルとして最善の警告はした。それでも相手が楽観を選ぶなら、それは相手の人生。冷たいようですが、そうやって自分の中に「防波堤」を築かないと、こちらの心が持ちません。
同じように、責任感の強さゆえに身内の「危うさ」に疲弊している方がいたら、伝えたいです。 あなたは十分に考え、十分に尽くしています。 たまには「最悪のケース」が起きてから対処する遊び(バッファ)を、自分自身の心の中に作ってあげてもいいのかもしれません。
正直に言えば、自分の中に「私の判断が一番正しい」という確信があるのも事実です。 だって、データを見て、過去の失敗を分析し、論理的な帰結として「最悪のケース」を導き出しているから。そこに感情を挟む余地はありません。
でも、その「正しさ」を突きつけることは、時に相手を追い詰める凶器になってしまいます。
相手からすれば、私が「正論」という高い山の上から見下ろして、彼らの自由や楽しみを否定しているように見えるのかもしれません。「自分が一番正しいと思っている」——そう捉えられても仕方のない振る舞いをしている自覚もあります。
でも、その「正しさ」を握りしめている私の手は、実は不安で震えています。 正しくあり続けなければ、何かが崩壊してしまう。その恐怖と責任感から、正しさにしがみつくしかないのです。
「正しい」と言いたいわけじゃない。ただ、「安心」したいだけ。 このジレンマを解消するのは、論理ではなく、もっと別の何かが必要なのかもしれません。